「めぐみのことば」(11/22) をアップしました2015年11月28日

めぐみのことば

わたしに何をしてほしいのか(ルカ18:35~43) 山脇正子師

主イエスが、エルサレムに向かわれる直前、エリコの近づかれた時、盲人が道ばたにすわって、物ごいをしていました。マルコは、その盲人の名前を「テマイの子バルテマイ」とはっきり記しています。マルコは、この出来事の目撃者であったことでしょう。
この盲人は、群衆が通り過ぎる音を聞いて、何事かと尋ねました。彼は、ナザレのイエスがお通りなのだと聞かされて「ダビデの子イエスよ、わたしをあわれんで下さい」と叫びました。人々が彼を黙らせようとしましたが、彼はますます激しく、叫び続けました。「ナザレの子イエス」ではなく、「ダビデの子イエス・メシヤ・救い主」と確信できたからこそ、自分の求めを必死に求めたのです。
主イエスは、立ちどまり、彼を連れて来るように、とお命じになりました。彼が近づくと、「わたしに何をしてほしいのか」と尋ねられました。主イエスは、必要をご存知でも、しばしばなされる質問です。もう一度彼が、彼の問題に目をむけ、確認する必要があったのではないでしょうか。彼は「主よ、見えるようになることです」と、答えました。厚かましい願い、視力の完全回復を願いました。この盲人が、ほんとうに必要なのは、お金ではありません。見えることが、すべての解決なのです。ですから、主イエスに見えることを求めたのです。
そこでイエスは、「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った」と言われました。「あなたの信仰が」と、語られました。主イエスの偉大な力を発揮していただくためには、受け皿が必要です。この盲人は、信仰の受け皿を持っていました。大きな業も信仰があってなされます。もちろんその信仰さえ、主イエスは与えてくださるお方なのです。
すると彼は、たちまち見えるようになり、神をあがめながら、主イエスに従って行き、人々はこれを見て神を賛美しました。この盲人は、聞く体験と見る体験、これこそよきおとずれの経験でした。