「めぐみのことば」(1/31) をアップしました2016年02月06日

めぐみのことば

神による仕上げ(ガラテヤ3:1~6) 山脇望師

「わたしは不思議でならない」(1:6)「のろわるべきだ」(1:9)と語り、ここにきて「物わかりの悪いガラテヤ人よ」「バカ者」と、力をこめて語ります。これは、神の恵みから離れ、福音から落ちていく姿を知るからです。それは、主イエスを信じる信仰によって、「アブラハムと共に、祝福を受ける」のに、主イエスだけでは不十分で、神の律法と割礼を受け、それに忠実に生きることが必要不可欠の条件である、という教えに振りまわされている状態にあったのです。確かに、律法も神から与えられたものです。しかし、それは アブラハムを通して与えられた神の祝福に勝るものではありません。430年後に与えられた律法でも、神の約束をかえることはできないのです。まさに、遺言と同じです。
また、律法は「キリストに連れて行く養育係」「トレ-ナ-」です。スポ-ツで選手を訓練し、体調の調整などを行い、最上の状態で試合ができるように働く人です。律法の働きも、私たちが神の祝福である主イエスのところに導かれるための働きをしてくれるのです。律法によって自分を知り、その自分の過ち、弱さを知り、そしてその過ちのために主イエスの十字架による身代わりのゆるしを知らされ、主イエスに導かれるのです。
そして、律法は「信仰があらわれるまで」です。神の子である自分が見えるまでです。律法の支配は、神の子でありながら、人間を奴隷にしてしまいます。放蕩息子の譬話は、兄も弟も父の子でありながら、物理的には父のもとから遠い、近いの違いはあっても、心は共に奴隷です。奴隷の精神は、自分が中心であり、「ある」か「無い」かの支配にあり、「した」か、「しない」かです。弟は「人が何もくれない」兄は「父は子やぎ一匹くれない」の中に生きています。父は、「いつも一緒にいる。みんなあなたのものだ」と。私たちは、律法のもとにある奴隷ではありません。主イエスにあって神の相続人です。