「めぐみのことば」(3/6) をアップしました2016年03月13日

めぐみのことば

わたしたちのほこり(ガラテヤ6:11~16) 山脇望師

主イエスによる犠牲の死によって「神の相続人」として生きることができるようにされました。ただこの事実を信じることによってです。ところが、それだけでは満足しない人々がおりました。自分たちの行いが認められなければならないし、そのために努力する必要があると。
どうしてでしょう。それは、自分を誇りたいからなのです。これは「良い顔をする」という意味ですから、要するに自分の良い行いによって、他人にいい顔ができ、自分の誇りとなるのです。あたかも、自分が神の相続人となるだけの価値があるかのように、あらわすためなのです。
それは、全く違います。ただ、神の恵みによるのであり、無条件に神の相続人として認められています。それを心に受けとめる人こそが、主イエスの十字架以外に誇りとするものはないと受けとめます。
パウロは、「イエスの焼き印を身に帯びている」と語ります。イエスが、神であり、イエスの十字架によってのみ神の前に義とされ、神の相続人として受け入れられると信じ、宣べ伝えていたのです。それは、当時の宗教的指導者による迫害を受けるものとなります。迫害を受けたくなければ、彼らの主張する「律法と割礼」を重んじて行うのです。
6年間働いた奴隷が、7年目には解放されます。しかし、奴隷が主人を愛し、去ることを願わないとき、主人のもとに、いつまでもいたいと主人に申し出たとき、主人は彼の耳をきりで穴を開けたのです。そして、その穴のところにイヤリングをするように、その主人の奴隷である「しるし」をつけたでしょう。
神の相続人の心には、「主イエスの十字架」が焼き印のように覚えられているのです。それこそが、何よりも大切なしるしです。今日、耳につけるイヤリングに十字架をつけている人がいます。しかし、私たちは耳ではなく、心に十字架です。これを忘れることがありませんように。