「めぐみのことば」(7/19) をアップしました2015年07月24日

めぐみのことば

「からし種一粒ほどの信仰」(マタイ17:14~21) 山脇正子師

山の上では、目映いばかりの主の栄光が現れました。ペテロが「主よ。私たちはここにいることは、すばらしいことです」と、言ったほどです。しかし、山の上に留まることは、許されませんでした。この世の現実に、引き戻されました。
彼らが、群衆のところに帰って見ると、残されていた9人の弟子たちと律法学者たちが、論じ合っていて、ただならぬ雰囲気です。その時ひとりの人が、イエスに近寄り、ひざまずき「主よ、わたしの子をあわれんでください」と、叫びました。その子は、ひとり息子、幼い時から、てんかんで苦しみ、何度も何度も火の中や水の中に倒れました。父親は、弟子たちだったらと連れてきましたが、なおしてもらえませんでした。弟子たちに失望しましたが、主イエスだったらとふところに飛び込み、必死の願いをしたのです。これは、父親の信仰の祈りです。
その時主イエスは、接近するメシヤ苦難すなわち十字架の死を予想した深い悲しみの中で「いつまで…いつまで…」と語られ、「その子をここに、わたしのところに連れてきなさい」と、てんかんの子、父親、弟子たちさえも引き受けられました。主イエスが権威をもって、おしかりになると、悪霊はその子から出て行き、その時いやされました。ただ主イエスにより、子供の危機的課題を解放し、周りの者たちの課題さえも解放したのです。
弟子たちが「どうして」と尋ねると、「信仰が足りないからである。…もし、からし種一粒ほどの信仰があるなら、この山にむかって『ここからあそこに移れ』と言えば、移るであろう」と言われました。 真の信仰は、神への全き信頼であり、小さい大きいと言うより、有るか無いかであり、量ではなく質の問題なのです。神の数式の中で「私のためのキリストの信仰」から、「キリストのための私の信仰」に転換することです。からし種一粒の信仰、神への信仰の祈りこそが、行く手を塞ぐ山を動かします。