「めぐみのことば」(9/6) をアップしました2015年09月12日

 めぐみのことば

「わたしの先生でありお医者さん」(マタイ6:25~34) 山脇望師

生活していく中で、いろいろのことで「思いわずらい」を経験します。これが「思い煩い」から「思い患い」にまでなってしまい、身も心も弱り、動きが重くなってしまいます。「思いわずらい」を、「心配する」、「思い悩む」と訳している聖書がありますが、イエス様は煩う、患う事を心配しています。
人は「食べること・飲むこと」、すなわち生きるに必要のもののために、また「何を着ようか」と、自分を美しく見せる事のためにわずらうのです。今日は、貨幣経済の時代ですから、学び、働き、安定した収入「富」を得て、それらが十分に獲得して安心した生活を願います。しかし、安定と安心の保証であると信じている「富」が、思いわずらいを発酵させている現実も知るのです。
それだけではありません。人は、「今日」のことだけではなく、「明日」のこと、すなわちまだ来てない、思っているようになるという現実性のない事を、あたかも現実となるかのように、なっているかのように「思いわずらう」のです。
イエス様は、人の心を重くし、暗くし生きる力を奪っていく「思いわずらい」から解放されるために、その秘訣を教えます。それは、心が見ているところです。空の鳥を見るとき、神様がそれらを豊かに養っている現実を知ります。野の花を見るとき、神様がそれらを美しく飾っている現実を知ります。そうだとしたら、神は私たちに対してそれ以上のことをしてくださらないことはないはずです。「信仰の小さい者よ」と、思われない心の持ち主になることによって、「思いわずらい」からの解放があります。
そして、「1日の思いわずらいは、その日」だけ、明日のことを今日に持ち込まない生活です。これは将来に対する無責任の生活と思われます。それは、わたしの生活を誰が責任をもっているかによるのです。「私」であると思う人は、「富」を信じてそれに仕え、「神」であると信じる人は、神に仕えます。