「福音の風」  牧師 小林 光生2016年07月31日

アメリカでも日本でもポケモン(すなわちポケットモンスター)のゲームが大流行している。
この倉敷ホーリネスチャーチの前でも何かがいるそうだ。

モンスターといえば、学校にどなりこんでくる親をモンスターペアレントというように、化け物、怪物のような意味である。

私はテレビのポケモンの画面は見たことがあるが、番組の最後まで見たことがない。出てくるモンスターをやっつけるとポケットに入るように小さくなり、いつでもその怪物を使えるようになるということらしい。

この怪物は、実はわたしたちの中にもいるのではないか、と思う。しかも、小さくはならないで暴れ回ってしまう時がある。

今日の礼拝の聖書箇所(※)にも出てくる。コリントの教会で破壊的な問題となっていたのは、自分の知識にもとづいた<誇り>、新改訳聖書では<高ぶり>であった。

誇り」は普通、良い意味合いで使われることが多い。しかし、このことばの元の意味は<ふくらませる>ということばに由来している。ということからすると<高ぶり>ということであろう。

色々な問題があること自体は問題ではない。人間が集まるところには必ず問題はあるのである。しかし、その問題の中に、主イエス様がおられるのではなくて「高ぶり」という怪物がいるならば、問題は解決へと向かわない。

※第一コリント8章1~9節
偶像への供え物について答えると、「わたしたちはみな知識を持っている」ことは、わかっている。しかし、知識は人を誇らせ、愛は人の徳を高める。
もし人が、自分は何か知っていると思うなら、その人は、知らなければならないほどの事すら、まだ知っていない。
しかし、人が神を愛するなら、その人は神に知られているのである。
さて、偶像への供え物を食べることについては、わたしたちは、偶像なるものは実際は世に存在しないこと、また、唯一の神のほかには神がないことを、知っている。
というのは、たとい神々といわれるものが、あるいは天に、あるいは地にあるとしても、そして、多くの神、多くの主があるようではあるが、
わたしたちには、父なる唯一の神のみがいますのである。万物はこの神から出て、わたしたちもこの神に帰する。また、唯一の主イエス・キリストのみがいますのである。万物はこの主により、わたしたちもこの主によっている。
しかし、この知識をすべての人が持っているのではない。ある人々は、偶像についての、これまでの習慣上、偶像への供え物として、それを食べるが、彼らの良心が、弱いために汚されるのである。
食物は、わたしたちを神に導くものではない。食べなくても損はないし、食べても益にはならない。
しかし、あなたがたのこの自由が、弱い者たちのつまずきにならないように、気をつけなさい。