礼拝説教「きよきに到(いた)れ」2021年08月01日

今日の中心聖句としてローマ人への手紙6章16 節後半とさせて頂く。「あなたがたは、かつて自分の肢体を汚れと不法との僕としてささげて不法に陥ったように、今や自分の肢体を義の僕としてささげて、きよくならねばならない。」

この「きよくならなければならない」は、新改訳聖書では「聖潔に進みなさい」文語訳聖書では「潔(きよき)に到(いた)れ」である。私たちのこの地上での目標点、いわばゴールとしなさいという意味である。

倉敷教会のそばに倉敷商業の野球部の練習グランドがある。先日、甲子園出場のための準決勝があった翌日にグラウンドのそばを、試合の結果を知らないで通った。選手たちの表情を見て、その結果はどうだったのか推察した。「勝ったのではないか」と思った。みんなの表情が明るかったからである。準決勝、決勝戦も勝って甲子園出場が決まったが、「甲子園出場」を目指していると表情が輝いているのではないか。私たちも、主イエスにお会いするために、「潔(きよき)に到(いた)れ」という目標に向かっていきたい。

パウロはここで具体的に「しもべ」の生き方を述べている。主イエスも、この地上に来たのは、<仕える>ためであり、<与える>ためであると宣言された。「人の子がきたのも、仕えられるためではなく、仕えるためであり、また多くの人のあがないとして、自分の命を与えるためである」マルコ 10 章45 節

罪から解放され、イエス様のため、家族のため、世界の人々のために仕える者とされるということが、この聖書の箇所での<きよめ>であると言える。これは大変なことであるが、大きな喜びを伴った神さまからの賜物である。25 節