礼拝説教「何という無駄遣い」2021年04月11日

主イエスが十字架に架かられるためにエルサレムに入場されるとき、「ロバの子」に乗って平和の王として行進された。神殿を見て、弟子たちが「なんて、すごい建物でしょう」と叫んだ後に、エルサレムの神殿崩壊と世の終わりについての預言をされた。一つ一つの出来事に引き続いて、その出来事の意味が明らかにされていると言える。

マタイ 26章で登場するのは「ひとりの女がイエスの頭に高価な香油を注ぎかけた」というものである。これは、十字架への歩みを指し示すものとなった。ヨハネによる福音書によれば、この女性はラザロの姉妹のマリヤであるが、マタイは名前を記さない。この香油は、ナルドの香油というブランド品で、1 年分の給料の価値があるものであった。弟子たちは、叫んだ。「なんのためにこんなむだ使(づかい)をするのか。」(口語訳聖書)共同訳では「無駄遣い」と翻訳されている。日本語としては「無駄遣い」の方が本来的であるそうだ。

主イエスは、この地上に何のために「遣わされて」きたのか。罪なきメシアが、十字架にかかりすべての罪を負い死でしまう。この十字架の死は、人間の計算では世界では、無駄死にとなる。この無駄遣いとも思えるこの「油注ぎ」を主イエスは何と言われたか。「この女がわたしのからだにこの香油を注いだのは、わたしの葬りの用意をするためである。」マタイ26:12

十字架前の主イエスに、尊い油を注ぐとは、この時を除いてだれも二度とくり返すことのできないことであった。メシアとは「油そそがれた者」という意味がある。この女性の行いが、メシアイエスの十字架の<記念>となった。

聖餐も無駄死にとも思える十字架が実に私たちへの尊い血の注ぎであったことを思い起こさせる<記念>である。