礼拝説教「平和か剣か」2020年08月23日

「自分の命を得ている者はそれを失い、わたしのために自分の命を失っている者は、それを得るであろう。」
(マタイ 10 章39 節)

先週は「収穫は多い」という主イエスの弟子たちへのメッセージを紹介した。このコロナ禍の中であるが、柵原教会でずっと祈られてきたある方が洗礼を受けられた。すでに召天さえたそ
の方のお母さんや家族のあつい祈りがあったからだ。
今日の主イエスのことばは弟子に対して非常に厳しく思える箇所である。初代教会での迫害を思わせる。

まず「平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきた」とのことばである。聖書の約束は「剣」に譬えられている。
「神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。」(ヘブル 4:12)

私たちはまず、ことばによってさばかれ、いやされての平和が与えられるのである。内村鑑三も戦争がはじまり、国民全体が勝利に酔っている時に「そうではないのだ」とみことばに立つ
ことができたのである。
つぎに「家族のものが敵となる」とある。
精神科医の香山リカという方が「親子という病」という本を出している。この本でアブラハムがイサクを献げた場面を取り上げている。肉親の愛は深いものであるがためにゆがんだものにな
ってしまうことが多い。アブラハムのようにイサクを献げたときに、祝福の親子関係が与えられるのである。
最後に 40 節以下では「報い」がテーマとなっている。元取税人であったマタイがどのような「報い」を数えているかは興味深い。