礼拝説教「明日の事は明日が心配する」2020年06月07日

分散礼拝の時は、「聖書における危機」というテーマでメッセージさせて頂いた。

来週は小林和子牧師が、「幸いなるかなこころ貧しき」という題で分散礼拝前から準備していた説教があり、今回はその後の「神の国とその義とを求めない」というメッセージである。

この主イエスが山の上で話された内容は、昔から「山上の垂訓」と呼ばれている。「垂訓」とは、「教えを垂れること。また、教訓を後世の人々に残すこと」という意味であるが、この主イエスのことばは、教訓ではなくて、メッセージそのものであると思う。主イエスが、この地上で弟子たちがまた、わたしたちがどのように毎日を過ごしたら良いかが語られているのである。

「日常」においてどのように過ごすかは「非常時」にどのように生きるかにつながっているのであると思う。

「食べること」「着ること」「住むこと」それに伴う経済生活はどうしても私たちに必要なものである。しかし、そのような中で私たちは「思いわずらって」しまうのである。主イエスは「空の鳥を見なさい」「野の花から学びなさい」と話されている。

わたしたちにとって「まず、神の国とその義」とを求めることを命じておられる。衣食住をはじめ、私たちが必要なものが多くあるなかで、最初にしなければならないことがある。この順番がおかしくなってくると、思いわずらいが私たちをおそってくるのではないかと思う。今日ではなくて、明日を見てしまうのである。

神の国を求めるとは、「神の恵みの支配」を信じて毎日の生活を歩むことである。私たちは、新型コロナウイルスの支配の中でいるような感じがするが、決してそうではない。

主の祈りでも、「み国をきたらせたまえ」とあった。国と力と栄えが、ローマ帝国ではなくて、日本国に永遠にあるのではなく、神の恵みの支配にあることを信じていきたい。

「その義とはどんなことか」旧約聖書では律法を行うことを通じての「義」を求めてきたのである。しかし人間の努力では救われないことが明らかになったのだ。また自分の正しさ、「義」を相手に押しつけることも、真の救いには至らない。イエス・キリストの十字架のゆるしのものさしを頂いていきたい。

そうして、明日のいのちは自分たちのものではなくて主のものであるから、今日、主がわたしたちを「見ていてくださる」ことに感謝してあゆめるように祈っていきたいのである。