礼拝説教「死んだのではない、眠っているのだ」2020年08月09日

「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」 (マタイ9章24節)

主イエスは山の上の説教を終えられて、マタイ 9 章で多くのいやしの働きをなされておられます。
体の麻痺した人が床に寝かせたまま、イエスのところへ連れて来ました。主イエスはこの人に宣言されます。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦された」 ここで主イエスは「からだのいやし」をなされるだけでなくて、「罪をゆるす」権威を持っておられるメシヤ(救い主)であられることを宣言されておられるのです。
今日の聖書の箇所では、「死の力に対して勝利を与えてくださる権威」をもっておられることが明らかにされています。会堂管理者の娘さんが亡くなりました。この葬儀のための呼ばれた笛吹く者たちや群衆たちに対して主は宣言されます。「あちらへ行っていなさい。少女は死んだのではない。眠っているだけである」主イエスは「見物人」を外にだして少女の手をとって生きかえらされたのです。
「死んだのではない、眠っているのだ」ということばは、その時の状態から考えると、無茶なことばに思えます。わたしたち人間では口にできない、口にしてはいけない宣言だからです。
パウロは「キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。」と主イエスにあって亡くなった人を「眠っている者」と表現しています。
礼拝で共に告白している使徒信条にも「我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこしえ)の生命を信ず。」とあります。
この使徒信条のことばも、常識とはかけはなれた、復活信仰が告白されているのです。使徒信条を通じても、「復活の命の宣言」を共にしたいと思います。