礼拝説教「祈ることができる」2020年05月17日

「父よ、みこころならば、どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの思いではなく、みこころが成るようにしてください」(ルカ22 章42 節)

 教会での集合礼拝ではなくて、分散礼拝になって「聖書の中での危機」というテーマで説教をさせて頂いています。
先々週は、主の祈りは普段の祈りだけでなくて、危機の祈りでもあることを見ました。この祈りは、主イエスが弟子たちにまた私たちに教えてくださった「主の祈り」です。
今日の聖書箇所は、イエス・キリストが十字架をすぐ前にした時に、主ご自身が祈られた「主の祈り」です。そういう意味では「危機の時の祈り」の続きとも言えます。それがゲッセマネでの主イエスの祈りです。
ルカによる福音書ではオリブ(オリーブ)山とありますが、そのふもとにあるゲッセマネであることが他の福音書でわかります。
ゲッセマネでの祈りは、「危機」の時の祈りでありましたが、「不断」の祈りがあってのものでした。「 イエスは出て、いつものようにオリブ山に行かれると、弟子たちも従って行った」とあります。ルカ22章39節 このように、教会でも共に顔を合わせて礼拝できないという危機の時に、不断の礼拝のささげ方が問われるのではないでしょうか。

 この祈りで今日、注目したいところは、この祈りが「父よ」ではじまっていることです。私たちも不断の時と同時に危機の時に「お父さん、助けて!」と叫び、祈ることができるのです。感謝ですね。
ルカによる福音書では、調べてみたのですが、主イエスが「父よ」と祈られている場面4 回出てきます。そのうちの一つがこの祈りです。
主イエスは十字架の上も「父よ・・」というで叫ばれた、祈られたのです。「父よ、彼らをおゆるしください。」この祈りにより、私たちは十字架によるゆるしが与えられているのです。 「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」この祈りは、主イエスのこの地上の最期の祈りでした。私たちの最期にこの祈りが備えられているのです。

 このオリブ山での祈りの内容そのものはどのようなものでしょうか。
それが最初に書いた「父よ、みこころならば・・・」という祈りです。 それは、「ゆだねる」という祈りでした。わたしたちは、「暗やみの力(53節)にゆだねるか、神の御手にゆだねるしかないのです。主イエスを裏切ってしまったユダはまさにこの「暗やみの力に」にゆだねてしまったのです。
「ゆだねる」といっても「どうにでもなれ」というのではなくて、父なる神にゆだね、祈り、十字架への道を歩みはじめてくださったのです。

 私たちは、それぞれ違った所におかれていますが同じお方を「父よ」と祈ります。同じお父さんを持つもとされているのです。ですから私たちは、兄弟、姉妹とされて共に「私たちのお父さん」と祈り、礼拝できるのです。

(祈り)私たちの天の父よ。今この時私たちを、この日本を、世界を助けてください。悪よりお救いください。アーメン。