礼拝説教「隠れたことを裁かれる神」2021年06月20日

先週は、異邦人への神の怒り、さばきの聖書箇所であった。 神から離れての虚無、暗さ、欲望(偶像礼拝)についてであった。

今週のローマ書2 章は、建物で譬えれば本館1 棟の続きである。 「だから、ああ、すべて人をさばく者よ」とパウロが嘆きのことばを 述べて、「あなたは・・・」と始まっている。2 章1 節。今までは「彼ら は・・・」と書かれていたが、ここではパウロ自身を含めてのユダヤ人 への罪の指摘であろう。 しかし、この「すべて人をさばく者」とある。ここで指摘されている 罪は「自分は正しい」と確信して、人をさばく人々、広げて言えば、 人類へのメッセージでもあると思う。 色々な争い、戦争なども「自分が、自分たちは正しい」と思い込ん でしまうところから始まっているのではないか。

10 節には「善を行うすべての人には、ユダヤ人をはじめギ リシヤ人にも、光栄とほまれと平安とが与えられる。」とある。 「あれ?善を行えば、イエス・キリストへの信仰がなくても、 その善行によって大丈夫なのか。」という疑問が起きてくる のではないか。 しかも16節には「神がキリスト・イエスによって人々の隠れ た事がらをさばかれるその日に、明らかにされるであろう。」 とあるこれは、福音を知らないで亡くなった方々への神の 「さばきのものさし」となるとも解釈できる。 しかし、この所の中心のメッセージを、4節「それとも、神の 慈愛があなたを悔改めに導くことも知らないで、その慈愛と 忍耐と寛容との富を軽んじるのか。」としたい。

神の慈愛とは、「・・・にもかかわらず」の愛である。